スタッフブログ特別編 ブラリ橋海外編(#5 ヴェッキオ橋 1/3)
新型コロナウイルスの水際対策が大幅に緩和され、個人の外国人旅行客の入国も解禁されました。日本も遅ればせながら欧米各国の日常に近づいています。依然として第八波の心配は残るもののコロナ禍前の状態が戻ることを大いに期待したいと思います。
そのようななか、今回のブラリ橋はちょっと趣向をかえてみました。
それは、新型コロナ流行の直前に訪れることができたイタリア・フィレンツェの話です。ここに、ひときわ異彩を放つ橋が架かっています。その橋は、見た目の奇妙さだけでなく、橋の歴史や利用方法などのユニークさから、有名な観光名所のひとつになっています。
イタリア政府観光局公式サイトは、フィレンツェのことを次のように紹介しています。
■ルネサンス文化が花開き、今も世界中の人を魅了してやまない花の都フィレンツェ
■旧市街に多くの芸術スポットが凝縮され、平坦な地形は街歩きに最適な観光都市
■ルネッサンス時代にフィレンツェに栄華をもたらしたメディチ家ゆかりの建物をはじめ、街は屋根のない美術館といわれるほど
フィレンツェと言えば、旅行雑誌などでよく見るこの風景。高台から見渡した旧市街の眺望です。ここは観光名所のひとつ「ミケランジェロ広場」。大型観光バスが停まり、カメラやスマホを持った観光客でいっぱいです。中央にひときわ光彩を放つ大きなドームが見えますが、フィレンツェのシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂です。ドームの天頂にあるブロンズ球には、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも関わったとされています。
左手に、小さく見えるのが「ヴェッキオ橋」。橋が架かるアルノ川は、フィレンツェの旧市街を東から西へ(写真では右から左へ)流れ、やがてピサの斜塔があるピサ(Pisa)に達すると、イタリア半島の西、ティレニア海に注ぎます。
「ヴェッキオ橋」は、イタリア語では「ポンテ・ヴェキオ(Ponte Vecchio)」。ポンテは橋、ヴェッキオは古いを意味し、およそ700年前に架けられた文字通り「古い橋」。橋の上は、多くの観光客が行き交い、賑わいが絶えることはありません。
日本人の目から見れば、とても橋とは思えない個性あふれる外観の橋、
今日は、このフィレンツェを代表する観光名所「ヴェッキオ橋」でブラリ橋。
この橋以外は普通の橋のようなのに、この橋だけが目立ってますね。誰かが橋の上に家を建てたのですか。
まあそういうことです。規則的に小さい窓が並ぶ建物は、王様専用の廊下です。廊下の建設にまつわる話や橋の上に立ち並ぶ宝飾店など、この橋は話題が豊富なんです。
それが所以の観光スポットなのですが、そんな面白い話は、多くの観光客の皆さんがブログやSNSで紹介していますので、私たちは橋そのものに注目したいと思います。
700年も前に架けられたということは、石でできた橋ですよね。そんな昔にこんなに平べったい橋が造れたとは!
橋の上にこれほどたくさんの建物があっても大丈夫なのですか。それにフィレンツェだって洪水はありますよね。洪水の時はどうなるのかなあ。
日本でも屋根付きの橋はありますが、洪水被害の多い日本に住んでいると、とても危険な橋に見えます。いくらヨーロッパの川といっても心配ですよね。フィレンツェを流れるアルノ川も大きな川なので洪水は起こりますが、洪水の話は後でするとして、まずはヴェッキオ橋の構造形式であるアーチの話から先にしましょう。
この橋は、西ローマ帝国が滅亡して以降、中世のヨーロッパに突如現れた近代橋の先駆けとも言える橋なんです。ローマ人のいわゆる半円アーチ橋とは随分違うでしょ。
フィレンツェには、橋梁技術にも秀でた人がいたということですね。
そういうことです。この扁平の度合いをライズ比という数値で表します。この数値が小さければそれだけ扁平しているということです。
ライズ比は、アーチ橋のスパン(幅)と高さの比です。半円であれば1/2になりますが、ヴェッキオ橋は1/6.51)でした。架橋されたのは1345年、当時としては世界一の扁平アーチ橋でした。
そのころ日本は室町幕府の時代ですが、日本に現存する石橋アーチ橋(沖縄を除く)で最も古いとされる長崎の眼鏡橋の架設は、この時代から300年近くも後のことです。
ヴェッキオ橋ができるまでは、「安済橋」という中国の橋が、ライズ比(1/5.12)世界一を誇っていました2)。この橋はヴェッキオ橋ができるおよそ730年も前に造られました。長さ(アーチスパン)は37.02m、今も健在です。但し、現在は一般用の道路ではないそうです。
中国も進んでいたんだ。
そう、ローマ帝国の橋は、ヨーロッパ各地に残っているのでよく知られていますが、中国の石造アーチ橋も隠れた驚きの技術なのです。さすが、万里の長城を造る国です。
ヴェッキオ橋の凄さはわかりましたが、ローマ帝国なら扁平アーチを造れたのじゃないですか。
いい質問です。それを説明するには、まずアーチ橋の歴史をたどってみましょう。石造アーチ橋といえば、ローマ帝国が建設したアーチ橋を思い出しますが、ローマ帝国のアーチ橋はそのほとんどが円形の半分を使った「半円アーチ橋」でした。
世界遺産ポン・デュ・ガール(仏:Pont du Gard)水道橋も、そのひとつです。そもそも、石造アーチ橋の起源はどこにあるのか、その技術はどのように世界へ伝わったのか。まずはそれから始めましょう。
アーチ橋の発明
■メソポタミアがアーチの発祥地!
紀元前4000年前ごろ、メソポタミア文明初期の中心になったのがシュメール人でした。シュメール人は、建物の出入り口などを逆U字型や逆V字型のアーチ形状にしました。
アーチはシュメールの建物に強さと美しさを加え、神殿の入り口や上流階級の家の共通の特徴となりました。通説では、メソポタミアにおけるこれらの例が、アーチ構造を利用した最も古い例だとされています。
シュメール人による文明から後のエジプト文明やギリシャ文明においてもアーチ構造は見られますが、不思議なことに、橋はもちろんのこと神殿などにおいてもアーチ構造が積極的に取り入れられることはありませんでした。それは一体なぜでしょう。
■どうしてギリシャ人はアーチに興味がなかったのか?
ローマ人と遜色のない高度な文明を形成していたエジプトやギリシャにおいて、アーチ構造が有力な技術とならなかったのはなぜでしょう。
文献3)の著者、太田静六氏はそのなかで「ギリシャ人が石造神殿を建てるのに、あえて柱と梁による構造によったのは、最初期のギリシャ神殿が石造でなく木造であった伝統や神殿を囲む列柱の荘厳美に限りない魅力を抱いていたためであろう」としています。
■ローマ人の先生になったエトルリア人!
ところが、このアーチの技術を発展させた民族がいました。エトルリア人です。エトルリアは、紀元前八世紀から紀元前一世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。
現在のローマから北へ、フィレンツェがあるトスカーナ地方などを含んだ地域をいいます。エトルリア人は、半円形の筒型アーチを使っていました。ローマ人は、この構造を学びます。
やがて、ローマ人のアーチ構造は他の追随を許さない傑出した工法へと進化していきます。
ローマ人は、広大な帝国の領土を統治するため、ローマ街道のネットワーク化と水道施設の建設に類まれな才能を発揮しました。中世ラテン語を由来とする『すべての道はローマに通ず』ということわざが浮かびます。
ローマ人が紀元前三世紀から後二世紀の500年間に敷設した道の延長は、幹線だけでも8万キロ、支線まで加えれば15万キロに達しました。また、大規模な水道橋を駆使した水道網と水道施設の建設も現代の施設と遜色がないほどの機能を有していました。
ローマ帝国のインフラ大事業にはアーチの技術が必須でした。街道の工事はローマ軍が、水道施設工事はソチエタスと呼ばれた集団が担当しました4)。
■なぜローマ人は、半円アーチに固執したのか?
ローマ人がアーチ構造、とりわけ半円アーチ構造になぜ拘ったのか。ローマ人にヴェッキオ橋のような扁平アーチを造る技術がなかったわけではありません。
トルコの古代都市リミアの近くには、紀元二,三世紀までには造られたと推定されるライズ比1/5.3の26径間にも及ぶ扁平アーチ橋が残っています5)。
これだけ大規模で難易度の高い工事をローマ人は極めて広範囲な地域で効率的に進めました。そのために必要なことは何だったのか。
設計や工事を担当する者にとっては、木製の支保工の制作なども含め、熟練度が高めやすい半円アーチ構造の繰り返しが好都合だったのではないでしょうか。また、アーチ構造を多用すれば石材の節約も可能になります。
さらに、後で詳しく述べますが、アーチの大きさ(アーチスパン)に比べると、相対的にアーチの部材が厚いのが半円アーチの特徴です。
それは施工精度のバラツキによる応力的な弱点をカバーすることができました。
ローマ人が半円アーチを多用した本当の理由はわかりませんが、もしかしたら、文献1)の著者が言うように、「ローマ人は真円を理想的な幾何学的図形であるとみなしていたのではないか」という、理屈を超えた精神的なところにあったのかもしれません。
■ローマ帝国が滅亡、アーチ橋技術も消えた?
西ローマ帝国は、五、六世紀ごろまで続いた民族の大移動により滅亡します。そして、ローマ街道はその役目を失い放置されるようになります。同時に、橋の建設技術も進歩を止めますが、アーチの技術は教会の建設技術において発展することになります。
長い橋梁技術の停滞期間を経て、やがてルネサンスの時代が幕を開けます。
14世紀以降、ルネサンスの中心地は、地中海貿易で繁栄した北イタリア、トスカーナ地方の諸都市でした。特にフィレンツェは、毛織物業や銀行業により、大きな経済力を持ちます。
そこに突然出現したのが、「ヴェッキオ橋」です。
■突然扁平アーチが出現、それがヴェッキオ橋!
ヴェッキオ橋の設計は、中世イタリアの画家・建築家であったタデオ・ガディとする説もありますが6)、詳しいことはわかっていません。一般にライズ比1/4を超えると扁平アーチと呼ばれますが、上述したように、ヴェッキオ橋はその値を大きく超える1/6.5でした。
■安済橋を造った中国は、ローマ人を先生にしたのか?
アーチ構造の原点はメソポタミアにあるとされていますが、中国の場合は、それがシルクロードのような交易網により直接伝わったもので、ローマ人の影響ではなく中国独自に発展したというのが通説です。
橋の構造細目をみれば、中国の橋はローマ人の橋と異なっているというのもその左証となっています。前述の安済橋は、「ヴェッキオ橋」よりおよそ750年も古く、595年-605年頃に架設されたといいます。
中国の技術は日本にも伝わり、長崎の眼鏡橋やその後の日本の石造アーチ橋の建設に大きな影響を与えました。ここでは触れませんが、日本に残る多くの石造アーチ橋は長崎などを起点としたヨーロッパルートの影響を受けていることも付け加えておきます。
何かのはずみで石が噛み合い下に落ちなくなったら、あたかも橋のように機能したというようなことはあったかもしれませんね。また、子供の積み木遊びのように、石を前へ前へ積んでいってアーチのようなものを作ったということもあったのでしょうね。何となくわかります。
石造アーチ橋はまさしくそんな感じで経験的に発見されたのでしょう。まずは、円アーチ構造のしくみを再確認してみましょう。
アーチ橋の構造
■アーチ構造の原理
アーチ橋に限らず、橋の桁には、次の5つの「力」が作用します。
①引張力 ②圧縮力 ③曲げモーメント ④せん断力 ⑤ねじりモーメント
①、②、③について説明します。
上図のような板に力がかかると、板を曲げようとする力(③これを曲げモーメントといいます。)が働き、板の上部が圧縮(②圧縮力)され、板の下部が引っ張られます(①引張力)。この板を石で造ったらどうでしょう。
板の長さによりますが、いくら石でもこのような形状では割れてしまいます。板を厚くすれば自重が大きくなり、場合によっては自重だけで壊れます。このように石材を橋桁の材料として使う場合は、石の短所である引張力に抵抗できないという性質が弱点になります。
そこで、この桁の形状をアーチ形状にしたらどうなるでしょう。上からの荷重は、圧縮力として基礎部まで伝わり安定した構造物ができます。アーチ構造は石の長所を最大限に活かした構造なのです。ここまでは、Web上でよく見られるアーチ橋の簡単な説明です。
さて、アーチ構造にすれば引張力が全くかからないのでしょうか。そうではありません。少し工学的な言い方をすれば「アーチ構造は、圧縮力が卓越していて、仮に曲げモーメントが作用してもアーチの安全性に大きな影響を与えない」ということなのです。
このため、アーチにかかる荷重が大きくなれば曲げモーメントが大きくなり引張力が顕在化します。最後にはどの部分になるかわかりませんが、最も応力的に弱いところから下図のように膨れだしアーチは崩壊します。
これは半円が作る円の形と半円の中を力が伝わっていく点(支持力線という)が一致していないことから起こる現象です。
実際の工事では、アーチ部(専門的にはアーチリブという)は一定の厚さがあります。
この厚みが、結果的にアーチを一定の安全率を有した構造体にしているのです。ローマ人は、アーチの大きさに応じて、必要なアーチ部の厚さがどの程度必要かを経験的に知っていたに違いありません。
アーチスパンに比較して、アーチ部が極端に薄いヴェッキオ橋がいかに称賛に値する技術だったかがわかります。ヴェッキオ橋のアーチ部の厚さは1m程度なので、アーチスパンを30mとすると、その比は1/30くらいです。
ヴェッキオ橋完成から100年後でも、その値は1/10くらいまでとされていました7)。ヴェッキオ橋の施工が、精密な石材加工技術と高度な施工能力に裏打ちされていた証です。
14世紀のイタリアに始まったルネサンスは、西ヨーロッパで展開された文化活動です。この時代になると橋は、旺盛な経済活動や人的交流を支える重要な社会資本になるわけですが、そうなるとその機能性も強く要求される時代になります。
つまり、できるだけ橋のスパンを大きくとって、橋の桁高と両岸の高さに大きな高低差が生じない橋の構造です。鋼やコンクリート製の扁平アーチ橋がまだ登場しない時代、扁平石造アーチ橋は当時の社会に欠かせない技術だったということですね。
橋の上にある存在感たっぷりの建物が、ヴェッキオ橋のアーチを霞ませていますが、土木的にはとても価値のある構造物だということですね。それでは、今回の内容をまとめてみます。
① ヴェッキオ橋は、中世ヨーロッパに突如として現れた極端な扁平アーチ橋だった。そのライズ比は完成当時(1345年)世界一だった。
② ローマ人の半円アーチ橋は、ローマ帝国滅亡と同時に建設技術の進歩も止まった。しかし、アーチの技術は教会建築の世界で必須の技術となった。
③ 河川幅が広いところに、桁高を下げた通行しやすい橋を架けようとすると、径間数が多くなる円アーチ橋ではなく扁平アーチ橋が有利であった。
④ ヴェッキオ橋は、アーチのスパンが長いだけでなく、アーチリブといわれるアーチ部の厚さが薄く、これは当時としては傑出した技術であった。ヴェッキオ橋から100年後の橋でさえ、ヴェッキオ橋の薄さを真似することは構造上危険だった。
そういうことですね。それでは、フィレンツェの街を襲った記録的な洪水の話に移りましょう。
スタッフブログ特別編 ブラリ橋海外編(#5 ヴェッキオ橋 2/3)へ続く
参考文献
1) 橋の文化史 ベルト・ハインリッヒ編著 鹿島出版会
2) 匠の作ったアーチ橋「安済橋」/上野淳人 Civil Engineering Consultant Vol.226
安済橋(完成は西暦595年~605年の間)については、この論文に詳しい。論文の中で「安済橋のアーチ支間は、建設後 730年余り世界一であった」と記述されている。安済橋完成から730年経過すれば、ほぼヴェッキオ橋の完成時期に一致するが、ヴェッキオ橋のアーチ支間は32m程度と思われ、安済橋のアーチスパン37.02mを超えていない。ヴェッキオ橋と同じころ完成したとするアーチ支間世界一の橋については、同論文内にその言及はない。日本版ウィキペディアなど安済橋のことを解説したWeb上の記述にも、「730年の間、アーチの長さは世界一だった」という文言が多数見られる。
3) 眼鏡橋 太田静六 理工図書株式会社
4) ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず 塩野七生 新潮文庫
5) Bridge near Limyra(https://en.wikipedia.org/wiki/Bridge_near_Limyra)
6) Taddeo Gaddi https://en.wikipedia.org/wiki/Taddeo_Gaddi
7) 長崎市中島川石橋群の研究 小山田了三 角和博 科学史研究Ⅱ、21(1982)