スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#6祖谷のかずら橋1/4)
今日は、「祖谷のかずら橋」に来ています。ここは年間30万人を超える観光客が訪れる徳島県有数の観光地。
「平家一族の哀話を秘める、秘境“祖谷”にあるかずら橋」。三好市公式観光サイト(大歩危祖谷ナビ)は、「かずら橋」へのいざないをこんな言葉で始めています。
三好市池田町から国道32号を南下、大歩危・小歩危の景勝地を過ぎると左手前方にアイボリー色(象牙色)で塗装された大きなアーチ橋(大歩危橋L=165m)が見えてきます。
この橋を渡ると、そこが祖谷地方のスタートライン。「祖谷のかずら橋」へは、ここから片側1車線の県道45号西祖谷山山城線を通り11km、わずか20分のところです。
(※アーチ橋は、構造形式によりそれぞれ名前があり、大歩危橋はローゼ橋と呼ばれます。アーチ部材が写真のように太くどっしりしているのが特徴です。ドイツの技術者ヘルマン・ローゼ(Hermann Lohse、1815 -1893) に因んで名付けられました。)
【♬祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣(ゆ)のごとく 風も吹かんのにゆらゆらと・・・♬】
今日は、どこからか聞こえてきそうな「祖谷の粉ひき唄」に導かれ、「祖谷のかずら橋」でブラリ橋。
秘境祖谷と言っても今は道路が整備されているから、「かずら橋」まではスムーズですよね。
大型観光バスは国道32号を通ります。このルートは広い道で便利ですが、「ひの字渓谷・小便小僧」経由の県道32号山城東祖谷山線ルート、地元では祖谷街道と言います。ここもお薦めのルートです。ただし切り立つ岩肌にぴったり寄り添う道を通らなければなりません。
木々の間から眼下に見える祖谷川渓谷との並走は、秘境祖谷を実感するには最高のロケーションです。ですが、道幅が狭いところが多く『運転は自信が・・・』という方は、よく調べてからお出かけください。
小便岩の命名の由来(西祖谷山村史から抜粋)
祖谷街道開設工事の爆破作業の時、奇跡的に、この岩が崩れ落ちずに残り、なんの加工もなく直下300メートルに近い絶壁に突出している。工事従事者たちが、度胸試しにと、この岩の先端に出て、岩を汚さず立ち小便をする者はないか?と大勢の人々が幾度も試みたが、岩の先端に出ただけで「度肝がぬけて、小便どころか目がくらみそうだった」とのことで、その当時、誰が名づけたのか・・・小便岩
皆さん、カーナビを使うでしょうから、安全運転だけに集中してもらえればいいですね。バスを利用する方は、阿波池田駅近くの阿波池田バスターミナルからバスが出ています。また、JRで大歩危駅まで行って、駅前からバスを利用するというルートもあります。
ところで、「祖谷のかずら橋」までは、四国の空港の中では高知空港からが一番近いということをご存知でしたか。
まあ、そんなに時間差はないので、どこの空港を利用されても大丈夫なのですが、池田方面から国道32号を通るルートは、吉野川の渓谷美を満喫できますので、私はこのルートをお薦めします。阿波池田駅から「祖谷のかずら橋」まではだいたい50分くらいです。
東祖谷には、「奥祖谷二重かずら橋」もあります。そこまで足を伸ばしたいという方は、さらに1時間弱かかりますので、お帰りの時間に気をつけてください。
さて、今日は大変頼もしい方をお迎えしています。「よびごと案内人」の一人として、祖谷の観光振興に携わっている桧尾さんです。桧尾さんに「祖谷のかずら橋」や祖谷観光について聞いてみましょう。
よろしくお願いします。それでは早速ですが、「よびごと」って何ですか。
「よびごと」というのは、電話がなかったころに祖谷の人たちが行っていた連絡方法のことです。昔は、谷を挟んだ対岸の家などへ、大きな声を張り上げて用事を伝えていました。
この風習のことを「よびごと」といいます。私たちはこの「よびごと」のように、祖谷にお越しいただいた皆さんに祖谷の歴史や伝統・文化を分かりやすく伝え、四季折々の美しい自然を楽しんでいただけるよう、観光案内をやっています。
そうなんですね。「よびごと」って、何か日本の原風景のようなものを思い起こさせますね・・・。
さて、祖谷を訪れる多くの方は、国道を利用されると思います。途中には景勝地「大歩危・小歩危」がありますね(注1)。ここは素晴らしい渓谷美もさることながら、地質学の分野でもとても有名です。また、遊覧船やラフティングが人気で、海外からのお客さんも増えています。
因みに地名なんですが、「大股で歩くと危ないから大歩危」、「小股で歩いても危ないから小歩危」というのはよく知られていますね。
よく聞きますよねえ、その話は。でもそれは俗説なんです。「大歩危・小歩危」は、今は地名になっていますが、昔は道(みち)の名前でした。日本国語辞典によれば、「ほき(崖)」を山腹の険しいところ「がけ」としていて、「崖路」は「がけみち。ほきみち。ほきじ」としています。この「ほき」が「ぼけ、ほけ」に変化したものだそうです。
昔は「歩危」を「歩怪」として、「大歩怪・小歩怪」と表記していました。「怪」の字に誰が「危」を当てたのか分かりませんが、三好市教育委員会編集の本1)は、「歩危」という表記が広まったのは、学校教育に関係があるとしています。
学校で使用された明治22年の字引には、「大歩危・小歩危」と記されているそうです。
それにしても、今通っている国道32号は、明治22年に高知まで開通したのですが、よくもまあ、こんなところにこれだけ広い道路がつくれたものだと思いますね。もちろん、ずっと昔はもう少し尾根沿いを歩いていたのですが。
■大歩危、小歩危の俗説はなぜ生まれたか
広く知られる大歩危・小歩危の俗説は、文字からの連想が容易なので納得しやすいのですが、一体この有名な俗説はどのように生まれたのでしょう。その問いには、上記の文献1)が答えてくれます。
藩政時代、この地に当てられた文字は「歩怪」ではありませんでした。阿波志(注2)という徳島藩が著述した地誌書があります。
この書では、「嶂(ショウ・みね)」の字を使い、大歩危を「大嶂」、小歩危を「小嶂」としています。明治6年(1873年)になると地租改正が実施されます。翌7年の土地測量のときに「字(あざ)名」が決められ、現三好市山城町の一部であった西宇村は、字地の名称を「小歩怪・小歩怪道下」と「大歩怪・大歩怪道ノ下(注03)」と名付けました。これが「歩怪」の起源となります。
昭和6年(1931年)、「日本地理大系 中国及四国篇」という本が発行されます。この中で、本文の写真版の解説として、次のような文言が記されました。
「・・・地方人士の語る所によれば大歩危は大股に歩めば危険で、小歩危は小股で歩みてもなお且つ危険なりと云う。・・」
これが今に至る俗説の流布のきっかけだと、本文献は指摘しています。それにつけても、この話に90年もの歴史があるのは、その説得力にほかなりません。
大歩危・小歩危は道の名前だったのですね。それにボケは崖の意味なんですね。
それでは、もうひとついいですか。前から疑問に思っていたのですが、どうして「祖谷」は「イヤ」と言うのですか。この漢字を初めて見た人は「ソダニ」か、「ソヤ」って読みませんか。
そうですよね。でも、この質問には明快な答えがありません。一言で言えば、いつからか「祖谷」という字が当てられ、そう呼ばれるようになったということでしょうか。
■祖谷はなぜ「イヤ」と呼ばれるのか
「日本三大秘境のひとつ」、これはWeb上などでよく見かける祖谷についての定番フレーズです。「かつて祖谷地方は、『陸の孤島』・『阿波のチベット』と呼ばれ、おおよそ文化とは隔絶された奥地の代名詞でもありました。」と、第33代西祖谷山村長は本2)の中で述べています。
そんな秘境祖谷、その呼称のルーツはどこにあるのでしょう。それには祖谷について綴った古文書が参考になります。徳島県立図書館デジタルライブラリー「郷土関係和古書」で閲覧できますので、その記述を探してみましょう。(※東祖谷山村史にも、この内容が登載されています。)
「異本阿波志」という編集者不明の古文書があります。成立時期は、宝暦7年(1757年)とするものなど諸説あり、成立時期は特定されていないようです。
この中に、祖谷の呼称について触れた一文があり、
「祖谷山 往古ハ秦ノ庄 中西ノ郷 彌山ト云ケル」
と書かれています。これを引用したのでしょう菊地武矩(讃岐の浪士)が記した「祖谷紀行(寛政12年・1800年)」という古文書にもほぼ同じ内容の記述がみられます。
つまり、「祖谷山は、往古(古くは)は彌山(彌は弥の旧字体)と云っていた」というような意味ですから、藩政時代にも祖谷の呼称について関心を持つ人がいたということです。「彌」は、訓読みでは「いや・あまね(し)」などと読みます。辞典(新訂字訓)には、「彌」は「ことが限りなく展開することをいう」と解説されています。この意味から察すると、あまねく広がる山々が織りなす壮大な「祖谷」の自然を、「彌山」と連想した先人がいたということでしょう。
しかし、「祖谷」の字がなぜ使われているのか、そしてそれをなぜ「いや」と読むのかについては、諸説ありというところです。東西祖谷村の村史3)4)はいくつかの説を紹介していますが、どの説をとっても曖昧さが残ります。
祖谷という地名について、民俗学者の柳田国男氏は“イヤ”・“ユヤ”は、元は祖霊のいるところという意味を持ち、後にその意味にあった漢字を当てはめたとしています。和歌山県田辺市には「熊野」と書いて”イヤ“と読む地名があります。また、御坊市にも「熊野神社」と書いて”いやじんじゃ”と読む神社があります。
「熊」は音読みで「ユウ」です。なので「ユヤ(イヤ)」という読みと関係がありそうですが・・・。まあ、「イヤ」という言葉は奥が深そうだということですね。
私は、ひとつの考えとして、祖谷を「彌(イヤ)」と呼んでいたということ。また「地勢のけわしいさま」を「険阻(けんそ)」といいますが、この「阻(そ)」に通じる「祖(そ)」を借り字として、「祖山」とした。そして、いつ頃からか「祖谷山」となり、今の呼び方に落ち着いたというようなところかなと思っています。
分かりました。一言では答えられないような質問をしてしまったようですね。少し難しい話になったので話題を変えます。祖谷へ行くのであれば何か美味しいものを、となります。
私は、お味噌が付いた「でこまわし」を思い浮かべますが、ちょっとだけ、祖谷の郷土料理について教えてください。
そうですね。祖谷の郷土食といえば、その代表格は「祖谷そば」でしょうか。祖谷そばは一般の麺のように「つなぎ(中力粉など)」をほとんど使っていないため切れやすいので、初めて食する方は少し戸惑う方もいるかもしれません。
祖谷そばは、つるりとしたのど越しの良さを味わうそばとは異なり、少しざらりとした食感があります。それが、そば本来の味と香りを楽しませてくれます。
でこまわし(田楽)
昔は、竹串に刺したイモや豆腐、川魚などを囲炉裏(いろり)に差して、くるくる回しながら焼いていました。でこまわし(田楽)は、そのさまが人形浄瑠璃の木偶(でこ)人形の使い手の手つきに似ているところから、このように呼ばれています。
じゃがいも(ごうしも、ごしゅういも、ごしゅいもなどと呼ばれる)などに塗られた味噌の焦げる香りが食欲をそそります。因みに「でこまわし」の「でこ」は、木製の人形(俑)のことで、土製なら土偶です。つまり、木偶なので「もくぐう」ですが、「でく」といいます。「でくのぼう(木偶の坊)」という言葉は、この「でく」なのですが、西日本では「でこ」と呼ぶそうです。
そば米雑炊
そばの実は、製粉し麺などに加工して食べるのが普通ですが、祖谷では、これを雑炊にして主食代わりに食べていました。今では「そば米汁」とも言われ、徳島県内でも広く知られています。
アメゴのひらら焼き
ひららは平らな石という意味で、熱した石の上に味噌で土手を作り、その内側にアメゴや野菜を並べます。石の上が煮立ってくると、味噌の土手を崩しながら味わうという、何ともアウトドア派の方には最適の食べ物です。
岩豆腐
文字通り岩のように固いと形容される豆腐のことで、縄で結わえる豆腐として知られます。昔は、囲炉裏にこの豆腐を刺した串を差し、田楽として食べられていました。今は、祖谷でも限られたところでしか作られていませんが、すぐに売り切れるほどの人気商品になっています。
さあ、ここからは急に専門的な話に変わります! 慣れるまでご辛抱ください!
■祖谷はどこに位置しているのか
四国の標高地形図を見ると、四国の中央部を1,000m級の山々が東西に連なっています。四国山地です。四国山地の東と西、ひと際地形図の茶色が濃くなるところに、2つの高峰、剣山(つるぎさん1,955m)と石鎚山(1,982m)がそびえます。
上図は、徳島県を北側から見た標高地形図です。徳島県の総面積の約75%は森林ですが、この図を見ればそれが一目瞭然です。剣山は四国山地の東に位置します。剣山を源として西へ流れた水は、険しい山々の間を縫いながら祖谷地方を縦断し幽谷・祖谷川をつくりました。
祖谷川は、一級河川吉野川の支川の中で二番目の長さを誇ります。(銅山川55km・祖谷川53.8km・鮎喰川42.9km・穴吹川41.9km)
今度は、祖谷地方を西から見てみましょう。
剣山から西へ流れる祖谷川は、「祖谷のかずら橋」がある西祖谷山村善徳で北に向きを変え、池田町出合で「松尾川(20.2km)」を合わせると、4kmほどで吉野川に合流します。
この方角から見ると、人の往来を拒むように険しい峰々が祖谷地方を取り囲んでいるのがよく分かります。かつて、祖谷に立ち入る者は、原生林に覆われた1000m級の峠を越えなければなりませんでした。祖谷の随所にその由来の跡が残る「落人伝説」。戦いに敗れた武士たちは幼い安徳天皇を連れ、祖谷を逃避地として選びました。ロマンあふれる伝説誕生の素地がここにあります。
祖谷地方は、剣山から西側に向けて広がる334km2(行政区域の面積)、東西の長さ約30kmの地域です。吉野川の流域斜面に形成された集落もありますが、ほとんどの集落は、祖谷川と松尾川の流域の山腹斜面に立地しています。そのため、同一集落内でも、個々の家屋は垂直距離で200mを優に越える高低差をもっています。
祖谷地方に、このような傾斜地集落がなぜ多いのか。傾斜地集落の形成は、祖谷地方の基盤岩である岩石と深い関係があります。祖谷の集落を対岸から見渡せば、杉や檜の植林で覆われた急峻な山腹に、少しだけ緩やかな土地が見えます。そこに宅地や畑がつくられています。このような地形を「地すべり地形」といいます。
「地すべり」は、 斜面の一部あるいは全部が地下水の影響と重力によってゆっくりと斜面下方に移動する現象のことをいいます。祖谷地方の基盤岩は、「地すべり」を起こしやすいのです。
皮肉なことに、地すべりが発生しやすい土地は地下水が豊富なこともあり、集落が形成されやすいという側面もあります。
標高地形図を見ると、四国の中央に連なる山々が見事に東西に整列しています。そのことは、地質帯ごとに色分けされた下の地質図を見ても明らかです。この理由については、前々回の「幻の美濃田橋」のブログの中で説明しています。興味がある方はそちらを見ていただくとして、ここでは祖谷地方の地質構造をみておきましょう。
祖谷地方の大部分を占めるのは、中央構造線の南側に位置する三波川帯(さんばがわたい)という地質帯です。三波川の名は、群馬県を流れる利根川水系の河川、三波川に由来します。三波川帯の岩石は、海底火山から噴出した溶岩や海底の砂や泥の堆積物が、プレート運動により地下深くに沈み込み、低温高圧型の変成作用をうけたあと、地表に上昇したものです。
変成作用とは、既存の岩石に圧力や温度が加わって、岩石の組織が変化することで、三波川帯の場合は結晶片岩と呼ばれる岩石に変わります。吉野川南岸や祖谷川の河川敷を歩けば、吉野川北岸とは異なる、一定の方向に割れやすい色鮮やかな石を観察できます。学術名では緑泥片岩といいますが、通称「阿波の青石」で知られるこの奇麗な石は結晶片岩に分類されます。
地質帯について、もう少し詳しく言うと、三波川帯の南縁には御荷鉾(みかぶ)緑色岩類という岩石が分布する狭い帯状の地質帯があります。この部分も合わせて「三波川―御荷鉾帯」とも呼ばれます。御荷鉾帯の御荷鉾も、群馬県の御荷鉾山に因んでいます。
祖谷地方に占める面積は大きくありませんが、さらに南側の剣山付近の地質帯は秩父帯と呼ばれます。この付近は秩父帯の北側部分にあたるため秩父北帯ともいいます。(注04)
秩父北帯は、古生代石炭紀からペルム紀の石灰岩や、ペルム紀から中生代ジュラ紀のチャートなどがジュラ紀の砂岩、泥岩などと混ざり合った地質の集合体となっていると考えられています。
地質に一定の知識がなければ、まるで呪文のように聞こえますが、何億年も前の石を身近に見れば心惹かれるかもしれません。たとえば石灰岩。剣山頂上から135mくらい下の「大剣神社(おおつるぎじんじゃ)」の裏手に露頭しています。
剣山に登ったことがあるなら下のような写真を撮られた方も多いのではないでしょうか。まるで剣がささったような大きな岩。御塔石(おとうせき)と呼ばれ、当神社の御神体です。(注05)。
■四国山地の隆起
祖谷地方はその大部分が三波川帯に属しています。上述のように三波川帯の岩石は、地下深くで圧力を受け生まれ変わった後、地表に現れた変成岩です。6000年前のこととされています。(※変成岩の生い立ちについては、前々回のブログをご覧ください。)
祖谷地方をして秘境と言わしめるのは、その急峻な地形にあります。この地形は四国山地の隆起によりもたらされました。隆起は、新第三紀末頃から始まり、第四紀後半に加速されたと考えられています。
壮大な大地の動きは、急峻な山々が重畳する奥深い祖谷の地形をつくり、いつの頃からか山腹の急傾斜地に人が住み始めます。やがて集落ができると、その営みは脈々と受け継がれ、四国の中央付近に独特の祖谷文化を育みました。
もう一度、祖谷地方の地形図を思い出してください。祖谷川は、池田町川崎で吉野川に合流します。祖谷地方の西側端は、四国山地にできた溝のようになっていて、そこを吉野川が北流しています。まるで四国山地が吉野川のために流れる場所を譲ったように見えます。
実は、吉野川は、四国山地の隆起に負けることなく北へ流れ続けたのです。吉野川の河床を下方へ侵食する速度が四国山地の隆起の速度を上回っていたのです。
このような河川を、先行河川(antecedent river)といいます。先行河川である吉野川の勢いは、「大歩危・小歩危」に代表される美しいV字谷の渓谷をつくりました。
瀬戸内海の方へ真っすぐ流れていた吉野川は、現在の三好市池田町で流れを東へ変えるんでしたね。前々回の「ブラリ橋」でもお話しました。
さてさて。標高地形図を眺めていて思ったのですが、どうして吉野川は太平洋を目指さなかったのでしょう。でも、太平洋に流れていたら今のような大河川吉野川と徳島の深い付き合いはなかったですよね。それに、そんなことになっていたら、大歩危・小歩危はなかっただろうし、祖谷へのアクセスは全く違っていたかもしれませんね。
結局、運命的な吉野川の流れもそうですが、秘境祖谷の誕生はロマン溢れる大地の物語の一ページと言えますね。どこかのテレビ番組を真似たような締めになりましたが、それでは、寄り道はこれくらいにして、「祖谷のかずら橋」へ急ぎましょう。
スタッフブログ特別編(#6 祖谷のかずら橋 2/4) 渡ってみよう「かずら橋」【体験編】
参考文献
1)渓谷探訪―大歩危・小歩危の歴史と景観― 三好市教育委員会
2)時空探訪(時を超えて語り継ぐもの)西祖谷山村閉村記念誌 西祖谷山村総務課
3)東祖谷山村誌 徳島県三好郡東祖谷山村誌編集員会
4)西祖谷山村史 西祖谷山村史編集員会
5)剣山(徳島郷土双書2)編者 福家健二
注釈
注1
文化財保護法に基づき、国指定天然記念物及び名勝「大歩危小歩危」として指定されている。
注2
徳島藩に召し抱えられていた儒学者、佐野山陰(さのさんいん)が寛政4年(1792年)に藩命を受けて編纂に着手し、文化12年(1815年)に完成した藩撰地誌
注3
阿波国三好郡村誌本文には「小歩危」は「道下」、「大歩危」は「道ノ下」と記述されている。
注4
地質の名称には群馬や埼玉の地名や河川名が多く使われている。これは、日本の本格的な地質調査がこの地方から始まったことに由来する。明治時代になると、政府によって地下資源開発を目的とした全国的な地質調査が始まり、明治8年、「ナウマンゾウ」で有名なドイツの地質学者ハインリヒ・エドムント・ナウマン博士が政府により招聘された。明治11年、ナウマンは秩父を皮切りに全国の調査を開始した。そして後に続く著名な日本の研究者たちも秩父の地から全国の地質研究に大きな影響を及ぼした。
注5
大剣神社については、東祖谷山村誌の「剣神社」の項で紹介されている。その一部を抜粋する。
「剣神社(つるぎじんじゃ)は安徳天皇、大山祇命(おおやまつみのみこと)、素戔鳴命(すさのうのみこと)を祭祀する。(中略)ところで、安徳帝が祀られる様になる由来は、(中略)【寿永年中(1187-1185)、屋島の合戦に敗れた平家の一族が安徳帝を奉じて祖谷の地にのがれ、平家再興の祈願のため、禊(みそぎ)の御髪と紐剣とを大山祇命の社に奉納された。】というのである。このことから、神社の名は劔神社と改称され、又、当時石立山あるいは四国太郎山と呼ばれていた剣山も現在の名に改められたという」
剣山観光登山リフトがある見ノ越にも「剣神社」があるため混乱するが、大剣神社は、明治元年3月の神仏分離の後、剣神社と改称されるまで大剣権現と呼ばれていた。大剣神社は剣山系の神社の総本社であり、大剣神社は剣神社の通称である5)。