スタッフブログ特別編(#6 祖谷のかずら橋 2/4)渡ってみよう「かずら橋」(体験編)

2023年06月14日

スタッフブログ特別編(#6祖谷のかずら橋2/4)


さあ、いよいよ「祖谷のかずら橋」がある三好市西祖谷山村に到着です。

路線バスの場合は、祖谷川右岸側にある停留所を利用しますが、大部分の方は車か観光バスを使われるので、かずら橋が近づくと、「秘境祖谷大橋(ひきょういやおおはし)」を渡ることになります。

「祖谷のかずら橋」の紹介記事でこの橋について触れる方はいないでしょうが、このブログは「ブラリ橋」。少しだけ紹介しましょう。

完成は2006年。橋長268m、 「4径間連続非合成箱桁橋」という形式の鋼橋です。橋桁がコンクリート製ではないので鋼橋です。この長い形式名を分解すると、「4径間・連続・非合成・箱桁」。それぞれにとても大切な意味があるのですが、この説明をしているといつまで経っても「かずら橋」にたどり着きません。

秘境祖谷大橋 橋長268m

「秘境祖谷に、こんな先進的な長大橋」、と思われる方もいるでしょうが、今やこの橋は「祖谷のかずら橋」へのスムーズなアクセスにはなくてはならないものです。

橋の中央付近まで来ると、この橋の完成に合わせて開業した観光施設「かずら橋夢舞台」(普通車268台・大型バス14台収容の駐車場)が左手に見えてきます。

年間30万人が訪れるかずら橋観光は、ゴールデンウイークなどの繁忙期には周辺道路に車が集中するという深刻な悩みを抱えていました。この施設や橋の完成は、長年の懸案だった大渋滞を大幅に緩和しました。

「かずら橋夢舞台」普通車268台・大型バス14台収容の駐車場 物産館、食堂、イベント広場

ほとんどの観光客の方は、ここから歩いて「かずら橋」へ向かいます。いよいよ観光地「祖谷のかずら橋」へ来たという感じでテンションが上がりますね。
ところで、昔の渋滞は大変だったのですか。

そうですね。私たちは一日中、車の誘導でかかりっきりでした。たくさんのお客様が来ていただけるのは大変嬉しいことなのですが、ひどい渋滞が起きると緊急自動車の通行や地域の人々の生活に支障をきたします。それに、何より祖谷に来ていただいた皆様の楽しい旅行を台無しにしてしまうので、私たちも一所懸命でした。だから、夢舞台は待ちに待った施設だったのです。

夢舞台は大きいので、少しびっくりされるかもしれません。

近代的な施設は、秘境のイメージを損なうという意見があることも承知しています。だから、私たちはこれからも秘境の景観を保全しながら利便性も向上させるという、相反する問題に向き合っていかなければならないと思っています。

「かずら橋夢舞台」から、坂道を300mほど降りていくと、橋が二つ見えてきます。
写真で見た「祖谷のかずら橋」を想像していた方は、少し戸惑うかもしれません。この橋は「祖谷渓大橋」と「新祖谷渓大橋」。

人の流れに沿って祖谷渓大橋の中央付近まで来ると、視線の先に「祖谷のかずら橋」が現れます。同時に、「あれが、そう?」「なんで、あんなにゆっくり渡ってるの?」こんな声が聞こえてきます。もう、今渡っている橋のことなど気にかける人はいませんが、この橋についても説明しておきしょう。

上流側(向かって右)の歩道専用橋が「祖谷渓大橋」です。昭和41年の完成ですが、左側の「新祖谷渓大橋」が平成元年に完成したことから、歩道専用橋に変わりました。この橋は、「祖谷渓大橋シンボルロード」とも呼ばれています。

この橋は、どちらの橋も「方杖ラーメン橋」という形式です。人や車が橋桁の上を通る「上路橋(じょうろきょう)」という形式の橋なので、橋の形状が見えません。しかし、「かずら橋」を渡るときに見えますので、余裕があったら見てください。

「方杖」の意味はすぐに分かると思います。問題は「ラーメン」ですね。見るだけでは想像できないでしょうから、もうラーメンのことは考えずに「かずら橋」を渡ることに集中してください。

手前の「祖谷渓大橋」と「祖谷のかずら橋」が接近して見えますが、40mほど離れています。

何人かのお友達と「祖谷のかずら橋」に行かれるなら、この橋の上に誰かが残れば、下のような写真が撮れます。でも、普通はいっしょに行動されると思いますので、ここからの写真は知らない人が渡っている普通の写真になりがちです。これから「祖谷のかずら橋」を訪れたいと考えている方は参考にしてください。

「かずら橋渡り口」は祖谷渓大橋を渡ってすぐのところにある狭い山道(通路)を降りたところです。その通路を進むと、右手に「かずら橋」の入口が現れます。

ここまで来ると、「かずら橋」の重厚さと神秘的な様に圧倒されない人はいないはずです。太い丸太の栗の木が、自然生えの幹周り3mほどもあるような太い杉の木に、焦げ茶色のシラクチカズラで固定されています。

この前に立てば、高いところが苦手だなんて言っていられません。覚悟を決めて慎重な一歩を踏み出しましょう。

渡り始めれば足元に気を取られ、他の人の様子など気にする余裕はないのですが、ふと顔を上げると前の人も後の人も同じようなしぐさで恐る恐る進んでいます。

ところが、たまに観光客の列が切れるときがあり、橋上に人がいないときがあります。そのとき、ごく稀に橋の中央を大股で渡る「つわ者」が現れます。この軽快な動きは橋を縦方向にくねらせながら揺らせます。吊橋など吊形式の橋はこのような一定のリズムが苦手なのです。

今からおよそ170年前、軍隊が吊橋の上を行進したために橋が崩壊したという記録がフランスに残っています。もちろん、「祖谷のかずら橋」では、そんな心配は無用ですが。

「祖谷のかずら橋」には、現代の橋でいう部材に相当するものに、それぞれ名前が付いています。西祖谷山村発行の本1)から、それを紹介しましょう。この呼び方は今でも使われています。

徳島県立図書館所蔵「祖谷と蔓橋 発行・西祖谷山村」(掲載許可徳図第29号)

「祖谷のかずら橋」の入口に組まれている丸太材は、「とりい」と呼ばれます。神社にある鳥居に因んだ名前です。橋の欄干の役目をする「うわでとり・なかでとり」を縛り付けるために設置した丸太材が、結果的に鳥居のような形になったため、その形状から「とりい」と呼ばれたのかもしれません。

しかし、かずら橋は桁橋と違い、容易に渡れるような橋ではありません。そのため、かずら橋へ踏み入る場所を、神域への入口に通ずるところと先人たちが考えていたとしても、不思議ではありません。「とりい」は結果的に生まれたものではなく、意図的に設置されたと考えることはできないでしょうか。

祖谷渓大橋の上のモニュメントにも刻まれているのですが、「祖谷のかずら橋」が描かれた藩政時代(1814年)の絵図があります。注目したいのは、この絵図に描かれた右側の「とりい」のようなものです。この部材は、橋を構成する部材としてではなく、参道の始まりにたつ鳥居のように、独立してたっているように見えます。

この絵図からは、そのような解釈もできそうに思えますが、「とりい」が描かれていない絵図もありますので、どうでしょうか。

徳島県立図書館デジタルライブラリー 阿波名所図絵(掲載許可徳図第29号)

■さな木

次に近代橋で言えば、「床版(しょうばん)」に相当する「さな木」について紹介します。

「さな木」は、広いところも狭いところもいろいろですが、10cmくらいから20cmくらいの間隔をあけて敷綱に固定されています。渡るときに下をよく見ないと踏み外してしまいそうな大きな隙間です。

しかし、足元を注視しすぎると、今度はその隙間から祖谷川のエメラルドグリーンの水面が目に入ります。こうなるともうカズラでグルグルに巻かれた「うわでとり」をしっかり両手で持つしかありません。このときに腰が少し曲がります。

それが、「かずら橋」を渡るときの正しい渡り方です。(笑▽笑)

まさに、「さな木」の絶妙な取り付け間隔は、架替え作業に携わってきた人たちの匠の技と言えそうです。

さな木は、古文書の阿波志では漢字で「佐奈木」と書かれています。現在は形状寸法が整った角材を使用していますが、昔は雑木をそのまま敷綱に固定していたようです。そのときの様子が文献1)に記されています。

昔は、雑木をそのまま敷綱に固定して、「さな木」としていたようです。今より渡りにくかったのではないでしょうか。

今は平らに加工された木ですからね・・・。そうだ、かずら橋と言えば、上から大きく垂れ下がった綱と入口のところから突き出ている太い木が印象的です。あれは何といいますか。

上から吊っている綱が「くも綱(雲綱)」、橋の両側にあるのが「ぶち木」です。特に「くも綱」は、天から伸びた綱が「かずら橋」を支えているような名前で、何か神秘的な響きを感じる人もいるかもしれません。

この大きな綱があるから、安心感がありますね。それに、この綱のお陰で「かずら橋」がとても綺麗に見えます。

■くも綱

「くも綱」を張る作業は、かずら橋の架替え作業の中でも最も危険な作業とされていました。「くも綱」は「とり木・かさ木」を固定している二本の杉の大木に、二本ずつ結ばれています。(※現在は、左岸側の下流側だけは少し後方にある杉の木に結ばれています。)

杉の大木は、現代の吊橋でいえば主塔のようなイメージですが、そこから全部で8本の「くも綱」が伸びています。「くも綱」の施工について書かれた記述を文献1)からみてみます。

これによると、「くも綱」は、今のように一本の杉から二本ずつではなく、三本ずつ計12本張られていたようです。これは、この時代のかずら橋においては、「くも綱」が構造上重要な部材であったことを示唆しています。「くも綱」の役目については、「4/4構造編」で詳しく説明します。

■ぶち木

「くも綱」ともうひとつ特徴的な部材が、両岸から斜めに突き出た「ぶち木」と呼ばれる部材です。「かずら橋夢舞台」にある「かずら橋ストーリー館」の説明板では「腕木(もしくは、ふち木)」と紹介されています。

「ふち木」は「縁(ふち)」にいれる木という意味でこのように呼ばれているものだと思いますが、英語訳は「Ude-ki(Arm)」となっています。文献1)に載っている絵は、今の構造とは細部が若干違っています。

徳島県立図書館所蔵「祖谷と蔓橋 発行・西祖谷山村」(掲載許可徳図第29号)

かずら橋の原型は、もっと原始的なものだったのでしょうが、このように各部材にそれぞれ名前が付けられているということは、過去に繰り返された架替え作業を通じ、橋の構造が一定の進化を遂げてきた証なのかもしれません。

それでは、最後に、「祖谷のかずら橋」の諸元、つまり長さや幅員について説明します。

三好市公式観光サイトや橋の説明看板には、「祖谷のかずら橋」は、長さ45m・幅2m・水面上14mと記されています。これは具体的にはどこの長さなのでしょうか。

昭和60年発行の西祖谷山村史には、「昭和三十三年に架替えられた現在の蔓橋を実測すると、長さ44.5m、幅1.4m、橋中央における水面からの高さ11.8m」と書かれています。かずら橋は定期的に架替えをしてきたので、寸法などに若干の違いがあって当然ですが、そもそも寸法表示箇所の定義が異なっていることも考えられます。そこで、近代橋の定義にならって「祖谷のかずら橋」を実測してみました。

■かずら橋の諸元

近代橋の場合、橋長、幅員は下図のように定義されています。

橋長は、左右両岸にある橋台のパラペットと呼ばれる壁の内側の距離とされています。もうひとつ、橋長によく似た支間長(スパン・span)という重要な長さがあります。これは、橋桁の設計をするときに必要な値で、橋を支えている支承の中心間距離をいいます。

一方、幅員は、有効幅員で表すのが普通です。有効幅員とは、簡単に言えば、実際に利用者が使える幅のことです。

実測可能な距離として、橋長は、「しきづな(敷綱)」を結びつけている「よこ木(横木)」の中心間距離としました。この距離は構造上重要な値ですので、本来なら支間長ともいえます。

また、厳密なことを言うと、横木は自然生えの杉の木に固定する形で設置されていますから、左岸側と右岸側が平行に設置されていません。つまり、橋の長さが上流側端と下流側端で微妙に違います。このため、橋長は橋の中央の距離としました。次に幅員ですが、橋の幅員は有効幅員を示します。

橋長は40.6mです。下図では(B)の距離に相当します。現在の「祖谷のかずら橋」は敷綱がワイヤロープで補強されているので、それを固定している橋台(コンクリート製アンカーブロック)を含んだ長さとすれば、46m程度になると思われます。(※橋台の構造については、4/4構造編で説明します。)
下図では(C)に相当しますが、橋台は埋設されていますので、現地では確認できません。また、(A)の距離を橋長とすることもできますが、これも確認できません。

なお、橋長の公称値45mは、村史記載の44.5mを四捨五入したものと考えることもできます。なぜ44.5mになるのかは、昭和3年設置のアンカーブロックまでの距離が基準になっているように思います。詳細は、注1を参照してください。

次に「かずら橋」の有効幅員は、約1.5mになります。公称値の2mは、敷綱に固定されている「さな木」の長さを指していますので、全幅員のことです。

また、下の写真で分かるように、橋の高欄(欄干)に相当する「うわでとり」の高さは、橋中央部で1.1mです。これは、奇しくも近代橋を設計するときに使う道路橋示方書に定められた高欄高さ1.1mと一致しています。おそらく、この規準を意識して設計されているのでしょう。

最後に、現在の「かずら橋」は水面からどれくらいの高さにあるのでしょうか。下の写真のように祖谷川の流量が少ない時は、水面からの高さは公称値どおり14m程度でした。
村史に記載されている11.6mとは随分違いますが、これは次のようなことが考えられます。(※測定時に増水していた。もしくは、錯誤であるという可能性は除きます。)

①当時は祖谷川の水位が高かった。もしくは、川床が低下している。

祖谷川の上流では水資源開発が行われ、祖谷川の水は発電に利用されています。このため、「祖谷のかずら橋」の地点では、昔に比べ祖谷川の水位は下がっています。川床高については、調査をしていませんので詳細が分かりませんが、この2つを合わせたものと考えることもできます。

②現在の「祖谷のかずら橋」とは橋の設置高さが違う。もしくは、「かずら橋」のたるみが今より大きかった。

新しい「祖谷のかずら橋」は、昭和63年に改修されたものですが、昔の「かずら橋」は、たわみが大きかった可能性もあります。

撮影年が不明ですが、「かずら橋」の絵葉書が残っています。この写真から設置高さを推定するのは難しいですが、たわみはそれほど大きいようには見えません。

徳島県立図書館デジタルライブラリー 絵葉書(かずら橋)(掲載許可徳図第29号)

「かずら橋」を渡ったので、思い出してほしいのだけど、橋はどのくらいたわんでいると思いますか。

足元に気を取られていたので、そんなこと意識しなかったです。・・たわみですか?

橋の中央でちょうど2m(注2)たわんでいます。意外とたわんでいることにびっくりするでしょ。「かずら橋」を渡り終えると、多くの方が後ろを振り返りますが、たわみを確認するために振り返る人はいませんよね。ほとんどの場合、渡り終えてない人たちを余裕の顔で眺めるために振り返っていますからね。

今度渡ったときは、「たわみ」も忘れないで観察してみてください。

ところで、先日「かずら橋」の調査をしていたとき、観光客の皆さんの間をすり抜けたのです。そうしたら、ある女性の方に「忍者みたい!」と言われました。だから、こうお答えしました。「えー、100回も渡れば、こんな感じです」

面白い! さて、今回は、「かずら橋」を渡ってみました。改めて、「さな木」が上手に配置されているのに本当に感心しました。また、「かずら橋」の部材には、細かく名前が付いているんだというのも初めて知りました。
それでは、次回は「祖谷のかずら橋」を架けたのは誰だ!、という話です。

スタッフブログ特別編(#6 祖谷のかずら橋 3/4) 誰が架けたの「かずら橋」【歴史編】

参考文献

  • 祖谷と蔓橋 編集者・徳島県教育委員会 発行・西祖谷山村

注釈

注1)

アンカーブロックは、幅3.47mのコンクリート製のブロックである。横木の中心からアンカーブロック端までの距離は、およそ3mになるので、この値を加えれば橋長は46.6mになる。但し、このアンカーブロックは昭和63年に設置されたものであり、それ以前は別のアンカーブロックが設置されていた。(※この経緯については、「4/4構造編Ⅱ」で詳述する。)

その構造は、昭和63年時の改修工事において調査が行われ、横木から2mくらいのところにあったということである。これに敷綱のワイヤロープが定着されていた。そこでこの長さも加えれば、「2.0m+40.6m+2.0m=44.6m」となり、四捨五入して橋長45mとなる。西祖谷山村史記載の44.5mというのも、このような定義に基づく橋長であったとすれば、納得の長さである。

注2)

たわみの実測値は2mであった。但し、これは、1名の測定者が橋中央にいることや、「横木」の上端と橋中央部の「さな木」の上端との高低差であり、概略測定値である。昭和62年に測定した結果では1.8mという数値がある。

TOP