スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#6 祖谷のかずら橋 3/4)
●空海が考案し、村民のために架けた。
●祖谷に落ち延びた平家の落人が追手から逃れるとき、すぐに切り落とせるようにカズラを使って架けた。
「祖谷のかずら橋」の説明には、必ずと言っていいほど添えられるよく知られた伝説です。「かずら橋」は「お大師さん」として人々に親しまれる弘法大師空海が架けたのでしょうか、それともおよそ800年前に祖谷へ逃れた平家の落人なのでしょうか。
有名なこの二つの伝説の他にも、西祖谷山村史は、「阿波の小桃源」という古文書に「土佐国なる同種の橋は、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)(注1)の架設なりと伝わるも明らかならず・・」と記されているとし、土佐からの技術伝承の可能性に触れた説があると紹介しています。
私は、源氏の討手が迫りくるときに、平家の落人がかずら橋を切り落とし、危機一髪でセーフ。対岸では悔しがる源氏の姿。そんなシーンが浮かびます。
平家の落人伝説に絡めた話は、ロマンがありますね。
空海が関係しているのではという説は、そもそも空海が祖谷に入山したという伝説が祖谷にはないようですので、「祖谷のかずら橋」に結びつけるのは、ちょっと不自然に思いますね。
そうですね。ただ、僧と橋というのは、昔から深い結びつきがありました。たとえば、長崎のめがね橋や岩国の錦帯橋など、架橋に僧が関係した事例は珍しいことではありません。しかし、「祖谷のかずら橋」には関係なさそうだということですね。
■橋は誰の発明か
「かずら橋」の起源について考える前に、「橋は誰の発明か」という根本的なことに少しだけ触れましょう。
橋は誰の発明でもなく、人の営みとともに自然発生的に作られていったものに違いありません。祖谷に限らず、日本中で、そして世界で、古代から川を渡る手段として橋は作られてきました。
最初は、石を並べて対岸に渡るようなもの、さらには丸太材を渡したもの、現代の桁橋の原型のような橋です。しかし、桁橋は木材を使っていたので石橋のように現代に残されていません。そのため構造的に桁橋と言えるほどの橋が、いつ頃から存在していたかは定かではありません。
とは言え、紀元前55年、「カエサルの橋」として有名な、木材を使った桁橋についてはその記録が「ガリア戦記(注2)」の中で語られています。これはライン川に架けられた500mくらいの、幅12mの橋だったようです。残念なことに構造が分かる図が残されていません。詳細な構造が不明とはいえ、2000年前には吉野川に架かる潜水橋と同じような構造の桁橋が、カエサルによってつくられていたというのですから驚きです。
このように、人類が橋を架けようとすれば、まずは桁橋からというのが自然な形です。しかし、生活通路として供する簡易な桁橋は洪水時に流されるという最大の欠点があります。そこで、水面より高い位置に橋を作り、猿が細い木の枝や葛をつたって空中を移動するように、水面の上を自由に渡れないものかと考えるのは自然な発想です。
そこで生まれたのが細部の構造形式は若干の違いはあっても、古代から、世界の至るところで工夫された吊橋(吊形式の橋)です。
橋脚に頼らずにできる限り長い橋を作る。これは今も橋梁技術者が持ち続けている強い思いですが、古代も現代も、その答えは面白いことに吊橋なのです。
吊橋の痕跡は世界に残ります。ニューギニアやヒマラヤ山中、チベット、またアマゾンやインダス河上流、さらには中国など、世界には山岳地に住む人々が古代から原始的な吊橋を架け、重要な移動手段として利用してきました。近代橋との違いは、主要な材料が植物など天然素材か鉄や鋼などの金属素材かというだけです。
それでは、祖谷の話に戻しましょう。今私たちが渡っている「祖谷のかずら橋」は、観光橋という位置づけだと思いますが、昔、祖谷にはかずら橋がたくさんあったと聞きました。
そうですね、祖谷地方に記録として残るかずら橋の数は13橋とされています。祖谷には古くから、「浮橋」と「藤橋」がありました。「浮橋」は「柴橋」ともいい、「藤橋」はかずら橋のことを指しています(注3)。
柴橋は、丸太を川幅が狭いところに渡し、その上に柴を置いて藤葛で縛りつけたものです。一方、藤橋のほうですが、藤は藤葛を意味し、藤橋は藤葛を使った吊橋のことです。
藤葛は「茎が他の物に巻きつく性質をもった植物の総称」ですので、山中でよく見かけるカズラのことです。「祖谷のかずら橋」の場合は、実際はシラクチカズラを使っていますが、古文書によれば昔は藤橋と呼んでいたようです。
なぜ、かずら橋を藤橋と呼んでいたのでしょうか。
カズラのことを総称的に言っているだけかもしれませんが、文献「秘境の祖谷山」1)の著者は、シラクチカズラの名前を知らなかったため単に藤と呼んだ。あるいは、シラクチカズラのことを広く庶民に知られたくなかったからあえて藤橋としたのではと考察しています。面白い視点です。いずれにせよ、シラクチカズラの発見こそが、かずら橋架設における重要特許のようなものです。
■祖谷地方のかずら橋は13か所あった
祖谷地方のかずら橋については、藩政時代に作られた絵図に記録があります。東祖谷山村誌は、1646年(正保3年)の阿波国図(文部省資料館所蔵)に7か所記されているとしています。
また、1793年(寛政5年)の祖谷紀行には、「祖谷に十三の蔓橋有 善徳の橋を第一とす」とあります。善徳は、現在の「祖谷のかずら橋」が架かる祖谷川右岸側の集落をいいます。
さらに、文献2)によれば、1880年(明治13年)編さんの美馬郡誌には9橋(善徳の他、後田、小祖谷、栩瀬など8橋)とあり、1911年(明治44年)の調査によると善徳橋(長さ二七間三尺・幅五尺・高さ一三間)など8橋となっています。(※祖谷は昭和25年、美馬郡から三好郡へ編入された。)
国立公文書館アーカイブには、1838年(天保9年)作成の天保国絵図(阿波国)が公開されていて、この絵図には祖谷川と松尾川と思われる川の13か所に橋が描かれています。興味深いのはそのほとんどの橋の両岸に大木の絵が描かれていることです。カズラの固定に木を利用していたということでしょうが、現在のような杉の木ではありません。杉の木はのちの時代の植林による産物ですから当たり前なのですが。
この絵図は阿波国の全域の道路網を表したものです。ここで描かれている祖谷地方の橋は、かずら橋の垂れた形状を表しているのでしょう、弧の形をしています。一方、祖谷地方以外の橋を見ると直線で描かれています。
単に橋の位置を示すだけでなく、かずら橋の特徴を捉え、他の橋と区別したこの絵図の描き方は、かずら橋が祖谷地方における特筆すべき交通インフラだったことを示唆しています。
祖谷にあったかずら橋の数については、その時代で設置数が異なると思われることや、当時の調査の信頼性などから、「恐らく十余個が存在したことは資材と部落の交通から推して妥当と思われる」という、西祖谷村史の見解が適切なのかもしれませんが、西祖谷山村史を含め多くの文献が13か所と伝えています。
■祖谷のかずら橋の変遷
現在の「祖谷のかずら橋」は、西祖谷山村善徳にかかる橋(善徳のかずら橋)のことをいいます。
13橋あったかずら橋は、大正10年前後には「善徳のかずら橋」を残し、他は針金の吊橋へ架替されました。
針金吊橋とは、かずら橋のカズラが針金に置き換わったというものではありません。近代橋の吊橋のことです。両岸の主塔から張り渡されたケーブルから吊材(ワイヤロープ)を下げて、橋桁を吊る構造です。
奥祖谷二重かずら橋が、この形式に相当します。奥祖谷二重かずら橋は観光橋ですので、橋床には板材が設置されていませんが、生活通路として利用するような小規模吊橋では板材が張られます。この形式の橋は、今でも歩道専用の生活道として使われています(下の写真)。
■一つだけ残った「善徳のかずら橋」の行方
祖谷地方で一つだけ残った「善徳のかずら橋」は、その後も善徳と対岸の集落を結ぶ重要な交通路でした。大正8年、善徳の対岸にあった重末(しげすえ)小学校が廃校になります。そのため、善徳小学校の新校区には、対岸の「今久保・中尾・閑定」の区域が編入されることになります。
こうして、三集落の児童は「善徳のかずら橋」を渡り、善徳小学校へ通学することになりました。そうなると、児童の通学が不便になることに加え、かずら橋の危険性に焦点があたります。
そこで大正12年、最後に残った「善徳のかずら橋」も針金吊橋に架け替えられ、かずら橋はすべて祖谷から姿を消すことになりました。
その針金吊橋が下の写真です。よく見てもらえれば分かりますが、歩くところには板が張られ隙間がありません。
随分広くて、かずら橋に比べると安全そうですね。何よりも歩くところが水平になっているから歩きやすそう。
いいところに気がつきました。かずら橋と違って、歩くところが水平になるのが吊橋の利点です。これは橋のしくみの話なので「構造編」で話しましょう。
■祖谷のかずら橋 復活に向けて
針金吊橋の架設から4年。かずら橋が祖谷から消えた風景を憂える人物が現れます。三好郡池田町長原田作太郎(注4)は、池田町や祖谷山発展のためにはかずら橋の復旧が必要だと考えます。昭和2年11月、祖谷渓保勝会が組織されると、「善徳かずら橋」の復活が始まりました。
当時、善徳校区連合青年団長であった片山頼政に協力を依頼、大いに共感する有志の輪の広がりにより、昭和3年3月針金吊橋の下流に「かずら橋」は復元再興されました。(※完成は昭和3年4月とする文献もある。)
■かずら橋の架替えについて
昭和3年に復活したかずら橋は、鋼線による補強がなされ、それまで毎年架替えていたかずら橋は、3年毎に架替えるようになったとされています。
ただ、「阿波志」には、利用者が少ない橋については、藩政時代から3年毎の架替えが行われていたと記されているそうですから、現在のような厳密な維持管理ルールがこの年からできたというのではないようです。
昭和初期は、架替え間隔が一定ではなく、また詳しい架替え記録も残っていません。
そこで、三好史教育委員会にご教示いただきました。
『架替えについては、昭和14年から昭和23年、昭和26年、昭和30年と、蔓橋が復元されて間もないときは、バラツキがあります。昭和30年からは3年毎に架替えが行われています。また大正の村史には耐久力1年と記述されていることから毎年のように架替えが行われていた時代があったのかもしれません。』
これから言えることは、3年毎の架替えルールが定着する昭和30年までは、カズラの劣化状態に応じて、柔軟に対応していたということなのでしょう。
架替えは、古くから11月下旬から12月にかけて行われました。この時期は落葉樹の葉が落ち、カズラの採取が容易なことに加え、農閑期に入ります。さらに、雪が降るまでには少し時間があるという架替え作業に最適な時期であったのです。
昭和3年以前は、「善徳のかずら橋」に近い5集落の住民が総出で架替えを行っていました。しかし、昭和3年以降は架替え事業費と手間の確保に苦労することになります。村や祖谷渓保勝会の補助金の活用や消防団、青年団による架替えも行われました。架替えが橋の劣化具合により判断されていたのは間違いないのでしょうが、3年毎に確実に実施できなかったのは、以上のような事情があったのだそうです。
少し大げさと言われるかもしれせんが、「祖谷のかずら橋」の今日に至るまでのこれほどの賑わいは、数知れずの先人たちによる誠心誠意の努力があったからです。今を生きる私たちは、その足跡の重さをかみしめ、「祖谷のかずら橋」を次の世代に受け継いでいく大きな責任があると思っています。
昭和41年、「かずら橋」の下流40mのところに前述の近代橋「祖谷渓大橋」が建設されます。これで、並列して架けられていた針金吊橋の役目は終わりました。その後、祖谷渓大橋の下流に「新祖谷渓大橋」が建設されると、祖谷渓大橋は歩道専用橋にかわると同時に、「かずら橋」のベスト撮影スポットとして親しまれるようになりました。
それでは、最終回「かずら橋構造編(Ⅰ・Ⅱ)」へ。
スタッフブログ特別編(#6 祖谷のかずら橋 4/4)「かずら橋」はカテナリー?【構造編Ⅰ】
参考文献
1)秘境の祖谷山 神話と伝説 谷口秋勝
2)祖谷と蔓橋 編集者 徳島県教育委員会 発行 西祖谷山村
注釈
注1)
行基菩薩とは、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧。聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。(Wikipedia行基から)
注2
ガリア戦記は、共和政ローマ期の政治家・軍人のガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が自らの手で書き記した、「ガリア戦争」の遠征記録(Wikipediaガリア戦記から)
注3
東祖谷山村誌は「浮橋」は「柴橋」を、「藤橋」は「かずら橋」のことを指すとしているが、浮橋は筏であり別に柴橋があったとする文献もある。しかし、祖谷の橋について記した「阿波志」には、浮橋について「柴を編み之を為す長さ◯丈」と書いてあること、平地河川に設置される「筏を川に浮かべた形式」の橋が祖谷川のような河川で主要な橋として供用されていたとは考えづらいことから、このブログでは東祖谷村誌の見解に従う。
注4
三好市池田町の池田ダムからおよそ600m下流に、未完成の橋台が両岸に残されている。昭和6年、池田町長 田原作太郎らは池田町と箸蔵村を結ぶ賃取り橋を計画するが、着工した翌年、橋台・橋脚は洪水に襲われる。二基の橋脚は無惨にも倒壊。橋台だけが両岸に残された。計画を主導した田原は昭和10年に死去する。その後、事業続行のための委員会が作られたが、橋は完成することはなかった。