スタッフブログ特別編(#1那賀川橋りょう(牟岐線)1/2)那賀川鉄橋空襲

2021年02月12日

スタッフブログ特別編(#1那賀川橋りょう(牟岐線)1/2)

このページは、スタッフブログ担当の当社女性社員が、「橋の魅力に触れる」をテーマに作成する「スタッフブログ特別編:ブラリ橋」です。少し長めの内容になっていますが、普段何気なく渡っている橋をちょっとだけ専門的に眺めてみました。橋なんか全然興味なかったという方にも読んでいただければ幸いです。

英語版はこちらへhttps://www.fccon.co.jp/staff-blog/1199/

福崎孝子さんは、羽ノ浦駅から富岡の女学校まで汽車で通っていました。昭和11年に開通したばかりの「那賀川橋りょう」を渡れば、福崎さんが降りる富岡駅(現阿南駅)です。しかし、その日は夏休み。いつもの汽車に乗ることもなく、勤労奉仕に出かけていました。

福崎さんがやっていたのは、防空壕の掘削で出た土砂を二人で運ぶ作業です。7月初旬に自宅から見た北の空が真っ赤に燃える恐ろしい光景が頭から離れないなかでの作業でした。(※1)。

その日とは、7月30日。太平洋戦争が終わるまでわずか16日の夏の日でした。「那賀川橋りょう」は、那賀川に架かった牟岐線で最も長い鉄橋です。全長約471m、大河那賀川の河口近くに架かります。この鉄橋が、一瞬にして筆舌に尽くしがたい悲劇の舞台となるとは一体だれが想像したでしょう。

この日、牟岐行下り列車は、午後2時47分に徳島を出発しました。満員の乗客を乗せた4両編成の列車は阿波中島(あわなかしま)駅に停車、富岡駅へ向かう発車の指令を待っていました。

このとき、アメリカ海軍航空母艦ハンコックから発艦した戦闘機コルセアが、紀伊水道上空を阿南方面に向かっていることなど、乗客や駅員は知る由もありません(※2)。

午後4時前、駅長の判断で列車は出発します。駅を出た黒い蒸気機関車は客車を牽引しながら大きく右にカーブし、那賀川の堤防上に向けてゆっくり登り始めます。登った先には「那賀川橋りょう」がその姿を現します。

先頭の機関車が一つ目の桁に差し掛かったときです。戦闘機2機がけたたましい爆音とともに上空から急降下、列車を目掛けて機銃掃射を浴びせます。列車は立ち往生。最後尾の車両の一部はまだ堤防に隣接する高架橋の上にあります。客車が執拗に狙われます。轟く悲鳴、逃げまどう人々・・・

あの日から75年。私たちは、「那賀川橋りょう」の北側橋台の近くに建立された石碑「平和之碑」の前で、福崎さんから話を聴く機会を得ました。

「平和之碑」は、平成17年、戦後60周年を記念して那賀川町婦人会によって建立されたもので、そこには今も鉄橋に残る悲しい弾痕の歴史が克明に刻まれています。

福崎さんは、婦人会で活動していた郡信子さんといっしょにこの悲劇を題材にした紙芝居を作り、近隣の小中学校などで戦争の悲惨さや愚かさを伝えてきました。福崎さんが語り部の担当です。当時の事を福崎さんから聴きました。

当時、福崎さんはいくつでしたか。この話はいつ知ったのですか
女学校の3年生で15歳だったのかな。橋の上で30余名のもの人が亡くなる大変なことが起きたということは、2,3日後に聞いたように思います。当時はまだ子供でしたし、今と違ってすぐにニュースが流れるわけでもありません
この日のことを列車に居合わせた人から聞きましたか
えー。羽ノ浦駅から列車に乗っていたTさんから聴きました。彼女は、富岡に住んでいた祖母に会いに行こうとしてこの列車に乗っていました。幸い怪我はなかったのですが、必死に逃げようとしていたとき、助けを求める誰かに足を掴まれたそうです。自分が逃げるのが精一杯だった彼女は、その手を振りほどいて逃げます。自分にはどうしようもできなかったのに、そのときのことが頭から離れないと言っていました

私たちは、福崎さんの話に言葉を失いました。

先頭の機関車は被害が少なかったんでしょうか。自力で走行できたらしく富岡駅まで到着したそうです。まだその時でも客車が到着していないのを不思議に思っている人がいたと聞きました
紙芝居を始めたきっかけは何だったのですか
紙芝居は、婦人会活動として何かできることはないかと考えていたとき、郡さんと一緒に始めたものです。郡さんは平和之碑を建立したときの婦人会会長さんです。挿絵は知り合いのH先生に書いてもらいました。H先生には、紙芝居の内容を文章でお伝えしただけなのに、絵があまりにも上手に描けていたのに感動したことを覚えています
紙芝居をされたときの皆さんの反応はどうでしたか
涙を流しながら紙芝居を見てくれた方もいました。今の平和な時代を生きる子供たちの中には、紙芝居の内容は遠い昔の事で、想像することさえ難しいかもしれませんね。それでも、子供たちがこの橋を見たとき、紙芝居が平和の尊さや命の大切さを考えるきっかけになればとても嬉しいです
昭和20年だから、考えようによれば、ちょっと前のことなんですよね。この橋は無言の語り部として福崎さんの思いを伝えていますね
戦争の悲惨さや愚かさを伝えることは、戦争を体験した私たちの責務だと思っています。7年くらい前までこの活動を続けてきました。今は私も歳をとり活動から身を引きましたが、若い人たちが、この平和な日本を永遠に守り抜いてくれることを願っています

現在紙芝居は那賀川町公民館に保管されています。それを後日見せてもらいました。当時の凄惨な様がまるで眼前のことのように描かれ、不幸にもこの列車に乗り合わせた人たちの想像を絶する恐怖や、亡くなられた方の無念さが伝わり、胸が締め付けられました。

福崎さんから話を伺うまで、太平洋戦争の事は歴史の事実としては知っているものの、正直私たちが生まれるずっと前の事というイメージでした。しかし、戦争の時代を生き抜いた福崎さんの説得力を持った重い言葉は、私たちに平和を守ることの大切さを改めて思い出させてくれました。

今も鉄橋の部材には、機銃掃射の痕を多数確認することができます。

鉄橋の北側から二つ目の桁には、特に弾痕が多く残っています。この鉄橋には上下流側に添架歩道(※3)が付いているため、弾痕を近くから見ることができます。興味がある方は、歩道上をゆっくり歩いて探してみて下さい。

さて、この鉄橋の構造形式は「10径間単純平行弦ワーレントラス橋」というそうです。橋の構造について興味がない方にとっては、何を言ってるのかと思われるでしょう。でも大丈夫です。私たちも少しづつ学んでみようと思います。ということで、橋の専門的な話は【#1那賀川橋りょう「牟岐線」(2/2)】の中で。

「平和之碑」の全文は総務省のHPにも掲載されています。「総務省 那賀川鉄橋」と検索すれば閲覧できますので紹介しておきます。

また、紙芝居を閲覧されたい方は、那賀川町公民館に予め許可を取ってから訪問することをお勧めします。

【※1】について
1945年7月4日未明、徳島市を129機のB-29が新町川河口から徳島市の上空に飛来、およそ2時間に渡って焼夷弾を投下し続けました。徳島市の発表では、この空襲により当時の徳島市の約62%が焼失し、死者約1,000人、罹災世帯17,183世帯など大きな被害があったとされています。この日の状況は阿南市からは言うまでもなく、遠く貞光町(現つるぎ町)からも見えたと証言する方がいます。(この説明は、「Wikipedia徳島大空襲」を参考にしました。)

【※2】について
那賀川の鉄橋空襲については、当時の連合軍の作戦について米国の公文書を調べている方がいます。(http://mt1985.cocolog-nifty.com/naval_strike/2014/11/730-pm-vbf-689-.html)その文書(AIRCRAFT ACTION REPORT)には、1945年7月30日,御前崎から南方175km付近にいた航空母艦ハンコック(USS Hancock)を14時に発艦し、18時15分に帰艦した戦闘機コルセア(F4U Corsair)2機が機銃掃射による損害を機関車に与えたと書かれています。この戦闘機の本来の任務は掃討作戦だったのですが、コードネーム「Dumbo」と呼ばれる捜索救援作戦に変更されたため、搭載していた爆弾などが使える攻撃目標を、改めて探したとされています。

追記2021.9.2

「AIRCRAFT ACTION REPORT」について補足します。
上述の戦闘機コルセアは四機で編成され、当日の攻撃については、三箇所を攻撃したこと、そしてその位置(緯度経度)、方法、成果を同REPORTで報告しています。それによると、
①一機は、和歌山県有田市宮崎ノ鼻(みやざきのはな)の無線通信所(Radio station)を攻撃、破壊した(Destroyed)となっています。同REPORTには地名をMiya sakaと記載していますが、緯度経度がこの付近を示しています。
②二機が北緯34度37分東経134度37分において、機銃掃射(Strafing)により機関車(Locomotive)に損害(Damaged)を与えたとしています。攻撃地点の地名や橋名の記載はありませんが、当日の状況からこの攻撃が那賀川鉄橋の攻撃と思われます。しかし、この緯度経度が示す位置は、鳴門市から北へ約50kmの瀬戸内海上の地点であり明らかに誤りです。もともと、位置の記録は分までの記載に留めており正確な位置記載は必要なかったのでしょうが、実際の位置は、北緯33度56分14秒、東経134度40分2秒になります。(緯度が1分異なれば、約1.8km位置がずれます。)
③上記の二機が、那賀川鉄橋近くにあった中島(Nakashima)の水上飛行機誘導斜路(Seaplane ramp)を攻撃したとなっています。二機に搭載していたロケット弾8発、500ポンド爆弾2発すべてを発射、うちロケット弾は3発、爆弾は1発命中したが損害軽微(Slight)としています。攻撃位置は北緯33度57分、東経134度40分と記録されていますが、この位置も、那賀川鉄橋の北岸側から北へ約4km地点の現那賀川中学校の東側付近を示しており、この付近に誘導路があったとは思われませんので、位置の記録は概略位置と思われます。

ただ、当時この付近に海軍の水上機基地がなかったかと言えばそうではありません。那賀川中学校から北へ5,6kmのところの坂野町和田島(現小松島市和田島)には、昭和16年小松島海軍航空隊が開設され、水上機基地として、主に四発哨戒用飛行艇及び単発のフロート付水上偵察機の飛行訓練がなされていました。また、小松島海軍航空隊の開設に伴い、その通信基地として平島村(ひらしまそん・昭和31年今津村と合併して那賀川町へ)に巨大な鉄塔三基と兵舎を有する通信所が建設されていました。この通信所は、終戦後米軍の駐屯を経て、平島病院となり、現在は那賀川中学校となっています。和田島は阿波中島駅から7km程度のところにあることから、米軍の報告書(AIRCRAFT ACTION REPORT)に記載されている水上飛行機誘導路は、これを指している可能性があります。なお、那賀川鉄橋の空襲があった時間に、爆弾による攻撃が鉄橋近くであったかどうかについては、私たち(本ブログ作成者)は、今のところその資料や情報に接していません。ただ、この記録からは、この二機の戦闘機は誘導路の攻撃の前に、たまたま視認した機関車に攻撃を加え、その後、搭載した爆弾を使い果たすために誘導路を攻撃したようにみえます(・・・sought targets of opportunity on which to expend their bombs and rockets.)。この攻撃がどの程度の精度で記録されたものか分かりませんが、いずれにせよ機関車の攻撃は、偶然としか言いようがなく、失われた多数の尊い命を思えば本当に悔しい限りです。(※このブログを読んでいただいた方の中に、上述の内容について詳しい方がいれば、ご教授いただければ幸いです。)

【※3】について
「那賀川橋りょう」は両側に歩道が付く大変珍しい鉄橋です。那賀川町史によれば、当時鉄橋の近隣には県道の役目を果たす県営の渡船しかなかったため、多くの人が鉄橋の軌道上を歩いて渡り事故に至る例があったそうです。そこで、徳島県と国鉄四国総局が協議し昭和48年に県により歩道が添架されました。歩道部分は県とJRによる管理協定書により、県道として県が管理しています。歩道橋ですから歩行者と自転車しか通れません。

謝辞
このブログの作成にあたり、福崎孝子さんはじめ、現那賀川町婦人会会長福住和子さん、那賀川町公民館の皆様にご協力いただきました。本当に有り難うございました。

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