スタッフブログ特別編(#4 幻の美濃田橋 2/4)多径間吊橋って、何?

2021年08月30日

スタッフブログ特別編 ブラリ橋(#4 幻の美濃田橋 2/4)

<このページは、「#4 幻の美濃田橋1/4」の続きです。>

「幻の美濃田橋」について、戦後10年間の橋計画に関する動きを、町史などからまとめてみました。

昭和29年11月22日付けの徳島新聞は、美濃田橋の工事状況を伝えています。

工事の状況を伝える新聞記事が、工事着工は昭和29年9月はじめと報じていることから、町史に書かれている昭和29年秋着工という記述と一致します。しかし、町史の一部には昭和28年着工という記述もあるので、単純に錯誤というのでなければ、当初は昭和27,8年頃の着工を目指していたのかもしれません。
それは町史掲載の完成予想図に『完成予定期日 昭和弐拾九年弐月(昭和29年2月※5)』という表示があることからも想像できます。

工事費の450万円も、新聞では750万円となっていますね。

案内看板の完成予想図をよく見て。何か気づいたことはありませんか?

橋脚の高さとその上にある鋼材でできた塔の高さが、実際とは違うような気がします。

おそらく、この完成予想図は、森さんが議会や有志の人たちに説明するために作成したものと思います。よくできているので、専門家に依頼したのでしょう。確かに、今残っている主塔とは高さが違うので、これが当初計画の予想図だと思います。
この時点では詳細設計までに至ってなかったと考えるのが普通です。何より、どれくらいの予算が必要かというのが重要なので、工事費450万円というのは、このときの算定ではないでしょうか。その後、観光兼人道橋に変更し、算定し直したのが新聞記事にでている750万円ではないかと思います。

それにしても、昔とはいえ、こんな予算で大丈夫だったのでしょうか。

橋の規模が違うので何とも言えませんが、昭和31年に着工した「美濃田大橋」は、幅3.6mで工事費5,913万円だったので、森さんらの苦労のほどが想像できます。ところで、完成予想図をもう一度見て下さい。気がついたことはありませんか。

ロープが二つ垂れ下がっていますね。こんな吊橋見たことないです。

これは「多径間吊橋」といって、吊橋としては大変珍しい形式です。しかし、今見たことないって言ったでしょ。気がついてないだけで、この形式の橋は何回も渡ったことがあると思いますよ。

え! それじゃあ、徳島にあるっていうことですか?

小鳴門橋がそうなんです。

吊橋は、桁をケーブルで吊った構造です。そのため桁を吊らない構造は吊橋ではありません。そのような観点で吊橋をみると、吊橋の形式を次のように分類することができます。なお、径間というのは、橋脚や橋台の間をいいます。

一般的に見られる吊橋は、単径間吊橋か三径間吊橋になります。美濃田大橋をよく見ればわかりますが、主塔から岸側の橋は、床版橋という形式の橋が架かっています。つまり、この部分はケーブルがなくても自立しますので吊橋ではありません。そこで、美濃田大橋は中央の一つの径間だけが吊橋構造ということになり、単径間吊橋と呼ばれます。橋を渡る時、そんなこと気にしませんが、ケーブルから吊材というロープが降りているかどうかでわかります。

グーグルマップなどで確認すれば全景を見ることができると思いますが、小鳴門橋は「多径間吊橋(4径間以上をいう)」です。この構造形式は、構造的難度が非常に高いため通常は採用されませんが、昭和34年に徳島県が小鳴門橋で採用しました。この橋は、当時の徳島県の橋梁技術の高さを示すものとして知られています。(多径間吊橋はなぜ難しいのかということについては後述(※6)しておきます。)

森氏の美濃田橋は、当初は「多径間吊橋(4径間吊橋)」を想定していたようですが、現存する北岸の主塔基礎(橋台)は、通常の橋の橋台のように隣接する道路に直接接続する形式になっています。つまり、北岸の主塔から北側は、橋構造が不要です。今はパーゴラが設置されて展望台になっていますが、橋ができていれば、ここが道路(通路)になります。

徳島新聞記事では橋長を160mとしていることから、南岸側も同様な構造であると考えられるので、下図のように吊橋構造は中央の2径間のみになります。従って、森氏は、この橋を「2径間吊橋」でつくろうとしていたということがわかります。
この場合でも、珍しい形式の吊橋であることには変わりありません。下図は、川の中の橋脚までの距離を「ノンプリズム トータルステーション(※7)」という器械で測定して作成しました。両岸の主塔中心位置が特定できませんので、当時の設計図の寸法を正確に復元したものではありません。また、この図は縦横比が異なるため、実際の橋はもっと細長い形状になります。

吊橋を経済的につくるためには、ケーブルの垂れ具合が重要になります。垂れている高さをサグ(sag:たるみ)といいます。想像だけでも理解できると思いますが、サグを小さくすれば主塔高さが小さくなります。その反面、ケーブルに大きな力がかかります。一方、サグを大きくすれば、今度は主塔の高さが高くなります。そのため、主塔間距離とサグの比(サグ比)を一般的に1/11から1/9の割合にするのが経済的と言われています。

森氏の橋に当てはめると、サグは7.2mから8.8mくらいの間が経済的ということになります。中央の主塔高さ(鋼材部の高さ)は、約7.5mですから、桁の形状にもよりますがサグ比は1/11程度だったのでしょうか。(※8)

この橋は、観光兼人道橋に変更されたとされています。もともと木橋という設計でしたので、ケーブルで吊る桁部分は、軽量化を図っていたのでしょうが、その場合には特に風対策が必要です。

通常この種の橋は、耐風索というものを設けます。吉野川の橋でも、池田ダムの上流にある敷之上橋などは耐風索で桁部分を上下流側から引張り、風対策をしています。また、観光地で有名な九重夢吊橋も規模の大きい耐風索が配置されています。
美濃田橋の場合は、2径間吊橋ですので、この耐風索を径間ごとに上下流一つずつ配置する必要があります。重要なことはその定着場所です。左右岸は岩盤が露頭しており、定着に問題はありませんが、中央部の定着は難しくなります。川の中の岩盤に定着することができますが、ロープが洪水時の障害にならないか気になるところです。

少し長くなりましたが、幻の美濃田橋についてわかってもらえたでしょうか。美濃田橋は実現することはありませんでしたが、今も吉野川の激流に耐え続ける橋の跡を見ると、当時の関係者の無念はいかばかりかと、胸が熱くなります。
以前、川の中に残る橋脚は撤去しようという考えがあったそうです。しかし、足代村の人たちの文化的活動を示すものであり貴重な財産ではないかということで、残すことになったと聞きました。本当に良かったと思います。

今は、吉野川を渡るとき渋滞ばかりが気になりますが、当時の人たちのことを思うと、快適に吉野川を渡れることに感謝しなければなりませんね。それとハイウェイオアシスを訪ねたときは、是非美濃田の淵を近くで見てもらいたいと思いますね。

この橋のことを調べていたとき、この時代に本当に多径間吊橋をつくる技術があったのだろうかと思ったのです。そこで、ある橋梁メーカーの方に伝えたら、「戦前には多径間吊橋の建設例が意外に多くて、今でも現存していますよ」と教えていただきました。
その中でも秀逸なのが、「4径間吊橋の桃介橋(ももすけばし)(木曽川に架かる橋・長野県南木曽町読書(よみかき)橋長247m、幅2.728m」です。
早速、文化庁データベースで調べてみると、平成6年、国指定の重要文化財に指定されています。インターネット上では多くの方がこの橋を訪れて写真をアップしていますが、当ブログで紹介できる写真はないかと思い、(一社)南木曽観光協会にお願いしたら、快く写真を送っていただきました。最後にその写真の一部を紹介して、今回のブラリ橋を終ります。
さて、次回は、「美濃田の淵の奇岩は、一体何なのか? どこから来たのか?」について話したいと思います。

どこから来た? どういう意味ですか?

それは、次回にしましょう。

■桃介橋の写真です。とても綺麗な写真を送っていただきました。いつか訪ねてみたいと思います。

※1から※4は、(#4 幻の美濃田橋 1/4)に関する記述です。

※5 町史掲載の図には「完成予定期日 昭和弐拾九年弐月」と記載されていますが、「弐月」の弐は判読が難しく読み間違いの可能性もあります。
※6 「道路構造物ジャーナルNET(15)多径間吊橋の可能性」から引用
4径間吊橋は3本の主塔で吊構造部を支え、隣り合う径間のケーブルサグが大きいことから構造上大きな課題を抱えている吊橋形式である。課題について以下に示す。
・任意の径間に活荷重が載荷された場合、ケーブル水平張力が釣り合うまでに大きな主塔の変形と補剛桁の鉛直変位が発生する。
・可撓性構造(3径間吊橋に比べて)であり、固有振動数が低下する。このため、耐風性や耐震性に検討を要す。

※7 一般的に「トランシット」の呼称で知られていますが、「ノンプリズム トータルステーション」とは、測定対象物にレーザー光を照射して、反射してきたレーザー光で距離を測定する測量器械のことです。
※8 橋のサグ比の例
桃介橋1/10、旧三好橋約1/9、関門橋1/11.1、因島大橋1/10、大鳴門橋1/10.6、下津井瀬戸大橋1/10、南備讃瀬戸大橋1/11、明石海峡大橋1/10、レインボーブリッジ1/9.9

謝辞

本ブログを作成するにあたり、東みよし町文化財保護審議会委員の島尾明良様には、貴重な資料の提供や現地の案内をしていただきました。また、日本橋梁株式会社OBの白砂治様、同社社員で岐阜大学工学部客員教授の羽多野英明様、同社技術開発チームの方には、多径間吊橋に関する情報提供や助言をいただきました。一般社団法人南木曽町観光協会を拠点に活動している南木曽町地域おこし協力隊の佐藤智史様からは、「学生時代、大歩危小歩危を旅したことがあります。四国を旅する際には美濃田の淵を覗いてみたいものです」との添え書きとともに桃介橋の写真を多数送っていただきました。本当に有難うございました。

スタッフブログ特別編(#4 幻の美濃田橋 3/4)奇岩の元は、「付加体」?

TOP